農業系ライターのブログ

フリーランスライターです。ALL ABOUT ボランティアガイドサイトも担当しています。ブログでは気の向くままに好きなことを書いています

2014年、ありがとうございました

2014年がもうすぐ終わります。今年1年、いろいろ御世話になり、ありがとうございました。

 

ご報告としましては、11月30日のブログに書いた「きょうこちゃんを救う会 - GOJARAPPE DAYS ~つくばの備忘録~」の募金額が12月25日付けで目標額に達成したそうです。少し前に円安の影響で、募金額の上限をあげざるをなくなったことがサイトに記されており、新聞記事でも取り上げられていたことから(東京新聞:難病で海外移植 円安で手術費不足 千葉・松戸の三輪響子さん:首都圏(TOKYO Web))年内の達成は厳しいのだろうなと思っていましたが、クリスマスに合わせて国内外を含めたたくさんの支援者からの寄付があったと、サイトには綴られておりました。

 

来年は阪神大震災から20年という節目の年です。「ボランティア元年」とも言われるくらいたくさんの方がボランティアに出向き、ボランティアに関心を持つきっかけにもなりました。

 

私自身もその頃のことを思い出しながら、2015年も頑張って仕事をしていきたいと思います。

 

来年もよろしくお願いいたします

 

 

 

 

小さくて弱き者

インフルエンザが大流行しているそうで、冬休み中の中学生の娘も数年ぶりに罹ってしまった。何日か喉が痛いという日が続き、

「なんか、調子悪いから、やっぱり医者に行く」

といいだしたのはクリスマスイブの朝。朝一番で医者につれていき、そのときは熱もなくインフルエンザとは診断されず、そのまま部活に参加したのだが、夕方「頭が痛い」と帰宅し、熱をはかったら8度近くあった。

 

翌朝、一度は熱が下がったものの、午後になり、熱が上がってきたため、再び医院に行って検査してもらったらA型との診断だった。娘は「ああ、インフルじゃ、しばらくどこにも行けないじゃん」とブーたれる程度に元気だった。小さい頃は熱が出ると、ぐったりと動けなくなってしまったことを思い出すと、丈夫になったものだ。

 

前に罹ったときもクリスマスで、小学校1年生のときだから、7年前か。確か、祝日だった。顔は赤いし、体も熱いのに、熱は37.1度 と低かったため、近くの休日診療所ではインフルエンザの検査もしてもらえず、薬も出ないまま、帰されたっけな……。「こんなにぐったりとして辛そうなの に……」と不安な思いのまま寝せていると、夕方、幻覚を見たらしく突然飛び起きて、正気じゃない顔で騒ぎ出されたので、慌てて、近くの大学病院の緊急外来 に駆け込み、ようやく薬を処方してもらえたっけ。あのとき、うすぐらい部屋で興奮状態の娘を目の当たりにしたときの不安な気持ちは、今思い出しても胃がキュッと締め付けられるような感覚になる。

 小さいというのは、それだけで弱い存在なんだな。そして、小さくて弱い命を守り、育てることがこの手に託されているから、お母さんはいつも不安で、心配症になるんだな。

医院に置いてあった銀の匙を読みながらクスクスと笑っている娘は、背も私と変わらないくらい伸び、小さくて弱かった頃が別人のようだ。無事に大きな病もケガもなく、大人に育てることが親の大きな役目なのだねなどと、改めて考えたクリスマスの夕方だった。

フリーランスは一匹狼じゃいられない

テレビ朝日系列で放映されていたドラマ、ドクターX〜外科医・大門未知子~の最終回を見た。特定の病院や医局に属さない、"フリーランス"の女性外科医が、決して権力になびかず、衣を着せぬ物言いで、権威主義の医師や看護師をばったばったと斬り捨てていく爽快感と、「絶対失敗しない」神の手のような外科技術をもって有無を言わせない圧倒的な力を見せつける勧善懲悪の世界が楽しかった。

 

昭和の時代なら、水戸黄門や遠山の金さんのような時代劇がこの手の勧善懲悪ドラマの舞台だっただろうな。絶対失敗しない外科技術は、水戸黄門の印籠か、桜吹雪の彫り物、だよね。荒唐無稽な内容であることは充分わかっていて、それでも楽しい。勧善懲悪は不滅ということかな。

 

いろいろツッコミどころはあるだろう。医療関係者なら「失敗しない医師なんてあり得ない」とか、経営者なら「あんな独裁者はいないわ」とかになるのだろうか。

私のツッコミは、

「大門未知子さん、かっこいいっス。でも、フリーランスは一匹狼じゃいられません」

であった。そして、

「そんなコミュ力、ゼロじゃ、仕事にならないって!」

とも言いたくなった。もちろん、私のような一介のライターと、天才外科医を一緒にすんな!とのツッコミもあるでしょう。ええ、それはわかっておりますとも。

 

でも、フリーランス=一匹狼のイメージを世間一般の人がもっているとしたら大間違い。もちろん、一人で仕事をしているという意味では一匹狼なのだけれど、誰にもなびかない孤高の狼では決してない。むしろ、フリーランスこそ、うまくコミュニケーションを取って仕事を進めていかなければならない仕事だと思う。

 

たとえば、私でいえば、初めて会うカメラマンと現場で待ち合わせ、仕事をするのはよくあること。電話やメールで事前に打ち合わせはしていても、想定以上に長引いたり、急きょ「こんなカットを撮ってください」と、変更になることもある。そんなときに臨機応変に対応してくれずに

「いたしません!」

なんて言われたら、もうあなたとは二度と仕事を「いたしません!」になるに決まっているwwもちろん、大門さんはそんな理不尽な理由で「いたしません」とは言ってませんでしたけれど。

 

会社員のように日常的に同じメンバーと動いてる人なら、あうんの呼吸で進行できるだろうが、ときに、どう距離を取っていいのやらという人と仕事をすることだってある。若い頃は、現場で叱られたこともあったけれど、そこで怒ったり腐ったりしたら仕事にならない。泣いたりしたら目もあてら れない。お叱りの言葉にしっかりと耳を傾けつつ、どうすればいいのか、どうしてほしいかをていねいに説明しながら笑顔で乗り切ってきたように思う。

 

フリーランスになったばかりの頃、

「この仕事は、挨拶が大事。それを忘れるな」

と仕事先の編集長に言われたことがあった。若くて生意気だった私は

「はい。わかりました」

と言いつつ、内心

「んなわけないだろう。仕事ができるかどうかが大事だろうよ」

と毒づいていたのだが、20年近くフリーの仕事をしていて

「やっぱり挨拶、大事。」

と思い至っている。相手に媚びろということでは決してないけれど、同じ仕事をするなら、気持ちよくしたほうがいいに決まっている。現場で上手にコミュニケーションを取ってする仕事のほうが仕上がりだって良いはずだ。挨拶はその第一歩。おはようございますくらいしっかり言えない人と、どうやってコミュニケーションを取ればいいのか?と思う。それは若かろうとベテランだろうと変わらない。

 

 孤高の一匹狼はカッコイイ。米倉涼子さんのような女優さんが演じると、はまりすぎるくらいにはまる。でも、現実は、仕事は1人じゃできないということだね。

 

 

クランベリー

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11月末にホームセンターで半額の札がついて投げ売りされていたクランベリー300円也。最後の1つに「買ってくれ~」と言われているようで、お持ち帰りしてきた。

春が近くなったら大きな鉢に植え替えるつもりで、日当たりのいいところに置いてあるが、ここ数日、緑だった葉が一気に赤くなった。調べたら赤いまま冬を越して、春にはまた緑になるんだそうで。分類上常緑樹らしいけれど。植物の生って本当に多様だな。

ちなみにいくつかの実がついていたが、生じゃ食べられたもんじゃない。クランベリーはどの品種も生はまずくてドライフルーツやジャムにして食べる加工専門のベリーらしい。北米産のドライクランベリーが大好きなので、生でもおいしいのかと思ってたので、ちょっと肩すかし。鑑賞用だろうけれど、大きくなって実がたくさんついたら、ジャムにできるといいけど、どうかな。

きょうこちゃんを救う会

知人がこのお嬢さんの支援活動に関わっていて、今日たまたま話を聞いた。

サイトのトップにある写真は9月の入院の頃で、現在は体重が15kgまで落ちてしまったそうだ。15kg?15kg減ではなくて?と思わず聞き返してしまうほど驚いた。その数字を聞いただけで、彼女がどれほど過酷な闘病生活をしているかが想像でき、胸が痛くなった。

そして、お母さんがつけているというブログの写真を見て、さらにショックを受けた。わずか数ヶ月でこれほど病気が進行していく事実を、本人は受け止めきれないのではないだろうか。

面識はないけれど、辛い治療をしている本人の気持ちと、それを支えている親御さんの思いを想像するだけでいたたまれない思いになる。

こういう支援活動に対しての賛否両論や、掲示板にスレッドが立ったり、炎上するほど批判があることも知っている。そもそも移植医療に関しても非常に難しい問題を含んでいて、海外で移植せざるを得ないことの是非も、きちんと議論すべきだろうとも思う。

でもそういった論争を当事者相手にするほど不毛なこともないだろう。

制度に不備があると思うなら、しかるべき手段で世間に訴えるなり、行政に意見をするなりが必要でしかける相手が違うだろう。制度そのものを論争のテーブルにのせるものじゃないかと思う。

「たとえ1%でも助かる方法があるなら、その可能性に賭けたい」親ならだれでもそう考えるのではないだろうか。悪魔に魂を売ってもいいから、病に苦しむわが子を助けたいと思うのではないだろうか。

募金は目標の半分を超えたところだそうだ。私も些少ながら寄付をしてきた。多くの人の思いが 届き、良い方向に向かうことをひたすら願いたい。

駅伝と合唱の似てるトコ

今年から、娘の学校のPTAのコーラスグループに参加している。週に1回の練習だが、歌を歌うなんて誰でもできることだけれど、それを合唱として完成させるためには様々な技術が必要なことに気づく。

そして、歌詞を噛みしめるように歌っていると、その意味がしみこんできて、グッとこみあげてくるような感覚になることもある。そんなとき、歌は言葉だな。言葉が大切な表現なんだなと改めて思う。

 

今週の練習日、顧問の先生からおもしろい話を聞いたので、メモ代わりに。それがタイトルの駅伝と合唱は似てるところがあるというもの。

走ることは誰にでもできるけれど、駅伝は速く走るだけでは勝てない。足の速い人を集めればいいというものではなく、走る順番がとても大事な競技なのだそう。一番速いエースをトップに置くか、それともアンカーにするか。あるいは他のチームのエースがいない中間に置くかコースは区間によって距離も高低差も違うため、どの区間に誰を持ってくるかなども考えなければならない。ライバルチームとの駆け引きも含めて戦略が必要だ。

 

そこが合唱に似ていると顧問はいう。合唱も歌のうまい人を並べればいい歌になるかといえばそうではない。歌い出しのタイミング、母音と子音の出し方、音の長さ、強さ、そして感情のこめ方等々。歌うってこんなに難しいことなのかと思うほど、小さなことの積み重ねで曲が完成されていく。

そして、個々が並ぶ順番によっても歌が変わってくるのだという。通常、合唱はソプラノ、メゾソプラノ、アルトの順番で並ぶ。この並び方を変えるだけで、歌が変わってくるのだという。

 

「試しに」とパートをバラバラにして、自分の両隣に違うパートの人が来るように並んで歌ってみた。歌は、アナ雪。すると、本当にそれまでよりも歌に勢いがあり、歌いながら、「パワフルだ」と実感するほどに。

 「ね、違うでしょう。どういうわけか、変わるんですよ。駅伝にもこういうことがあるそうで、似てるねと、陸上の先生とよく話すんです」と顧問。

 

なんでだろう……と考えた。自分に関していえば、責任感かな……と思った。隣から聞こえてくるソプラノやメゾソプラノの音につられがちなので、自分の声をしっかり出そういう意識が働いていた。また、周囲が同じパートだとその中で合わせる意識が働き、声量を抑えたり、あやふやなところは控えめに声を出したり、無意識に頼ってしまっていたのかもしれない。

 

隣に誰がいるかによって歌に向き合う意識や声が変わることは、ソロで歌うときにはない感覚。その辺りが個人の走りで順位が変わる駅伝と似ているのかな……。


土の歌 第7楽章:大地讃頌 【東京混声合唱団】【東京交響楽団】 - YouTube

 

島ちゃび

島ちゃびとは、沖縄の方言で、離島が受ける様々な不利益のことを指し、「離島苦」と書く。島痛みや、孤島苦などともいわれるそうだ。台風などの自然災害の影響を受けやすく、本土との経済格差などを思うと、島ちゃびは離島県、沖縄の抱える様々な問題を一言で言い表す言葉に思える。

島ちゃびが、私たち本土の人間の想像を超えていることを実感したのは、4年前に取材した伊是名島の教育格差だった。伊是名島は名護の運天港から1時間ほどかかる。島には小中学校が1校ずつしかないため、子どもたちは中学卒業後と共に島を離れ、本島へ進学していく。下宿代や生活費を合わせると仕送りは月に10万円を超えるのだという。島には塾もなく、良い学校に行かせるために夏休みや冬休みに泊まりがけで本島に滞在し、塾の講習を受けさせる家庭もあるそうだ。

高校へ行かせるのに月に10万円。我が家計を思っても負担は相当大きく、しかも漁業と水産加工が主な産業である島の経済状況を考えると、私たちの10万よりも重くのしかかる金額だろう

他県と同じ教育を受けるためにそれほどの教育費がかさむ現状は、教育の機会が平等とはいえない。教育だけではなく、様々な場面でこういった離島ならではのハンディキャップがあるのだろうなと思った。

 沖縄知事選、仲井真弘多氏に約10万票の大差をつけて初当選した翁長雄志氏は「民意が私を選んだ」と言ったのだそうだ。でも、民意ってなんだろう。民意で辺野古移設を阻止できないことくらい皆知ってるんじゃないだろうか。

基地問題は重要な問題で、決してなおざりにしてはいけない。でも、それは沖縄の民意でどうにかなることじゃなく、日米安全保障のあり方を見直さなければならない国の問題でもあるわけで。なのに、選挙のたびに、「基地問題」だけが大きく取りざたされ、争点になってしまうことで、沖縄の諸々の問題が隠れてしまっていることはなんともいえない居心地の悪さを感じる。

島ちゃびとどう向き合うか、他県と同じように暮らしていくための社会的な基盤をどう作っていくか。本当に民意が求めていることって、そういうことじゃないのだろうか。それは、沖縄だけの問題ではないのだろうけれど。

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