農業系ライターのブログ

フリーランスライターです。ALL ABOUT ボランティアガイドサイトも担当しています。ブログでは気の向くままに好きなことを書いています

クランベリー

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11月末にホームセンターで半額の札がついて投げ売りされていたクランベリー300円也。最後の1つに「買ってくれ~」と言われているようで、お持ち帰りしてきた。

春が近くなったら大きな鉢に植え替えるつもりで、日当たりのいいところに置いてあるが、ここ数日、緑だった葉が一気に赤くなった。調べたら赤いまま冬を越して、春にはまた緑になるんだそうで。分類上常緑樹らしいけれど。植物の生って本当に多様だな。

ちなみにいくつかの実がついていたが、生じゃ食べられたもんじゃない。クランベリーはどの品種も生はまずくてドライフルーツやジャムにして食べる加工専門のベリーらしい。北米産のドライクランベリーが大好きなので、生でもおいしいのかと思ってたので、ちょっと肩すかし。鑑賞用だろうけれど、大きくなって実がたくさんついたら、ジャムにできるといいけど、どうかな。

きょうこちゃんを救う会

知人がこのお嬢さんの支援活動に関わっていて、今日たまたま話を聞いた。

サイトのトップにある写真は9月の入院の頃で、現在は体重が15kgまで落ちてしまったそうだ。15kg?15kg減ではなくて?と思わず聞き返してしまうほど驚いた。その数字を聞いただけで、彼女がどれほど過酷な闘病生活をしているかが想像でき、胸が痛くなった。

そして、お母さんがつけているというブログの写真を見て、さらにショックを受けた。わずか数ヶ月でこれほど病気が進行していく事実を、本人は受け止めきれないのではないだろうか。

面識はないけれど、辛い治療をしている本人の気持ちと、それを支えている親御さんの思いを想像するだけでいたたまれない思いになる。

こういう支援活動に対しての賛否両論や、掲示板にスレッドが立ったり、炎上するほど批判があることも知っている。そもそも移植医療に関しても非常に難しい問題を含んでいて、海外で移植せざるを得ないことの是非も、きちんと議論すべきだろうとも思う。

でもそういった論争を当事者相手にするほど不毛なこともないだろう。

制度に不備があると思うなら、しかるべき手段で世間に訴えるなり、行政に意見をするなりが必要でしかける相手が違うだろう。制度そのものを論争のテーブルにのせるものじゃないかと思う。

「たとえ1%でも助かる方法があるなら、その可能性に賭けたい」親ならだれでもそう考えるのではないだろうか。悪魔に魂を売ってもいいから、病に苦しむわが子を助けたいと思うのではないだろうか。

募金は目標の半分を超えたところだそうだ。私も些少ながら寄付をしてきた。多くの人の思いが 届き、良い方向に向かうことをひたすら願いたい。

駅伝と合唱の似てるトコ

今年から、娘の学校のPTAのコーラスグループに参加している。週に1回の練習だが、歌を歌うなんて誰でもできることだけれど、それを合唱として完成させるためには様々な技術が必要なことに気づく。

そして、歌詞を噛みしめるように歌っていると、その意味がしみこんできて、グッとこみあげてくるような感覚になることもある。そんなとき、歌は言葉だな。言葉が大切な表現なんだなと改めて思う。

 

今週の練習日、顧問の先生からおもしろい話を聞いたので、メモ代わりに。それがタイトルの駅伝と合唱は似てるところがあるというもの。

走ることは誰にでもできるけれど、駅伝は速く走るだけでは勝てない。足の速い人を集めればいいというものではなく、走る順番がとても大事な競技なのだそう。一番速いエースをトップに置くか、それともアンカーにするか。あるいは他のチームのエースがいない中間に置くかコースは区間によって距離も高低差も違うため、どの区間に誰を持ってくるかなども考えなければならない。ライバルチームとの駆け引きも含めて戦略が必要だ。

 

そこが合唱に似ていると顧問はいう。合唱も歌のうまい人を並べればいい歌になるかといえばそうではない。歌い出しのタイミング、母音と子音の出し方、音の長さ、強さ、そして感情のこめ方等々。歌うってこんなに難しいことなのかと思うほど、小さなことの積み重ねで曲が完成されていく。

そして、個々が並ぶ順番によっても歌が変わってくるのだという。通常、合唱はソプラノ、メゾソプラノ、アルトの順番で並ぶ。この並び方を変えるだけで、歌が変わってくるのだという。

 

「試しに」とパートをバラバラにして、自分の両隣に違うパートの人が来るように並んで歌ってみた。歌は、アナ雪。すると、本当にそれまでよりも歌に勢いがあり、歌いながら、「パワフルだ」と実感するほどに。

 「ね、違うでしょう。どういうわけか、変わるんですよ。駅伝にもこういうことがあるそうで、似てるねと、陸上の先生とよく話すんです」と顧問。

 

なんでだろう……と考えた。自分に関していえば、責任感かな……と思った。隣から聞こえてくるソプラノやメゾソプラノの音につられがちなので、自分の声をしっかり出そういう意識が働いていた。また、周囲が同じパートだとその中で合わせる意識が働き、声量を抑えたり、あやふやなところは控えめに声を出したり、無意識に頼ってしまっていたのかもしれない。

 

隣に誰がいるかによって歌に向き合う意識や声が変わることは、ソロで歌うときにはない感覚。その辺りが個人の走りで順位が変わる駅伝と似ているのかな……。


土の歌 第7楽章:大地讃頌 【東京混声合唱団】【東京交響楽団】 - YouTube

 

島ちゃび

島ちゃびとは、沖縄の方言で、離島が受ける様々な不利益のことを指し、「離島苦」と書く。島痛みや、孤島苦などともいわれるそうだ。台風などの自然災害の影響を受けやすく、本土との経済格差などを思うと、島ちゃびは離島県、沖縄の抱える様々な問題を一言で言い表す言葉に思える。

島ちゃびが、私たち本土の人間の想像を超えていることを実感したのは、4年前に取材した伊是名島の教育格差だった。伊是名島は名護の運天港から1時間ほどかかる。島には小中学校が1校ずつしかないため、子どもたちは中学卒業後と共に島を離れ、本島へ進学していく。下宿代や生活費を合わせると仕送りは月に10万円を超えるのだという。島には塾もなく、良い学校に行かせるために夏休みや冬休みに泊まりがけで本島に滞在し、塾の講習を受けさせる家庭もあるそうだ。

高校へ行かせるのに月に10万円。我が家計を思っても負担は相当大きく、しかも漁業と水産加工が主な産業である島の経済状況を考えると、私たちの10万よりも重くのしかかる金額だろう

他県と同じ教育を受けるためにそれほどの教育費がかさむ現状は、教育の機会が平等とはいえない。教育だけではなく、様々な場面でこういった離島ならではのハンディキャップがあるのだろうなと思った。

 沖縄知事選、仲井真弘多氏に約10万票の大差をつけて初当選した翁長雄志氏は「民意が私を選んだ」と言ったのだそうだ。でも、民意ってなんだろう。民意で辺野古移設を阻止できないことくらい皆知ってるんじゃないだろうか。

基地問題は重要な問題で、決してなおざりにしてはいけない。でも、それは沖縄の民意でどうにかなることじゃなく、日米安全保障のあり方を見直さなければならない国の問題でもあるわけで。なのに、選挙のたびに、「基地問題」だけが大きく取りざたされ、争点になってしまうことで、沖縄の諸々の問題が隠れてしまっていることはなんともいえない居心地の悪さを感じる。

島ちゃびとどう向き合うか、他県と同じように暮らしていくための社会的な基盤をどう作っていくか。本当に民意が求めていることって、そういうことじゃないのだろうか。それは、沖縄だけの問題ではないのだろうけれど。

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無業社会を読んでみた

コメント取材で女性誌などにたまに掲載していただくおかげで、もう年賀状のやりとりすらしていないような古い友人が「美容院で見た雑誌に出てたね。懐かしくなってメールした」などとHP経由で連絡くれることがある。お互いの近況報告しあうと、皆、そこそこの暮らしをして、それなりに幸せにしていることがわかる。

 

そこそこというのは、都内かその近郊、あるいは別の地域かに家族と住み、大学生から小中学生くらいの子どもが1人~3人くらいいて、家でパソコンを使ってネットをする環境は当たり前にある。結婚しているのかシングルなのかや、家計の内実はわからなくても、皆、20年30年前の日本人が漠然と描いていたような中流の家庭を築き、いいお母さんとなっているのだなとうっすら想像する。「年収300万円で楽しく暮らす」なんていう本がベストセラーになる前の頃に多くの日本人が描いていた中流家庭だ。

 

誰もが順風満帆だったわけではない。20代の頃は、就職した会社を数年で辞めてしまったり、海外をぶらぶらしてみたり、「結婚しないかも」などと言ってはため息をついたりして、いったい自分が何をしたいのか、何者なのかなんてことを、ふらふらしながら問いかけた時代もあった。いわゆるモラトリアムってヤツですね。そんな時代を知っているからなおさら、中年になってもしっかりと頑張っているであろう旧友の近況に、時の移り変わりを噛みしめる。

 

しかし、私たちが子どもを送り出そうとしている社会は、あの頃と、これほどまでに変化してしまったのかと「無業社会」を読んで改めて思う。引きこもり、ニートといった言葉は広く知られ、ある種のカテゴリーになったことでどこか「うちの子に限って」的な受け取り方をしてしまう。だけれど、ある日突然、引きこもりやニートになるわけではなく、「仕事を辞めた→次が見つからない→どれだけ求職しても不合格で、自分が何ができるかわからなくなった」といったように段階を経ていくことがよくわかった。

 

そしてそれは決して新しい存在ではなく、モラトリアムという名の下、ふらふらしていた自分たちの20代と重なるところが多かった。違いは「次が見つからない」という辺り。あの頃は、「次」を見つけることがそれほど大変ではなかった。それは、時代だけのせいかはわからないけれど、20年くらい前に比べて、再チャンスしにくい時代になっているのは確かで、もし自分や友人たちが今の時代の20代だったら、同じようなことになっていた可能性は充分あることも思った。

 

あの頃と、社会が変化しているにも関わらず、制度が追いついっていない社会構造を見直さないとならないんだろうな。そして「やっぱり生娘がええのう」的に新卒ばかりを求めている企業もその価値を変えないといけないだろうし、何より「働かない=なまけもの」的に見てしまう人の意識を変えて、一度レールを外れた人が再チャレンジできる社会に変わらないといけないだろうなと思った。

若い人を大切にしない社会に未来はないよな……